大貫伸樹の書物楽会

2005-12-27装丁探索其の百壱(『金尾文淵堂をめぐる人々』)

shinju-oonuki20051227

インディーズ版の書体

 

中京大学の講演テーマで、「装丁にまつわる書体の話」をして欲しいという要望がきた。さっそく講演用レジュメの制作にとりかかった。

 

書体を使った装丁と、手描きの文字を使った装丁では、一体何が違うのかということ考えてみた。

 

まず考えられることは、手書きの文字は表情も個性も豊かであり、活字などの書体はその逆に、個性を殺そうとして生まれた文字であるということが、使い方においても重要なポイントである。

 

たとえば、年賀状を考えたときに、手描きのイラストや文字で創られた賀状は受け手にとって嬉しいものであり、全て活字などの書体を使って印刷やコンピュータでプリントされたものは、あまり有難くない。なぜだろうか?

 

手書きの文字は、文字の意味する内容だけではなく、「下手な字だ」「乱暴な字だ」「優しい字だ」「年取ったな」などということまで付随情報として付いてくるので、書き手の性格まで深読みしたりできる。それが楽しいのだろう。

 

では、手書きの文字はどのくらいの量まで許されるのか? 一冊の本が全て手書き文字だったとしたら、読むのにはとても苦痛がともなうに違いない。下手な文字ならなおさら苦痛である。手書きの文字は、文字に込めて送ろうという情報だけではなく、書き手の癖や性格などまで、必要以上の情報が込められてしまうから、書物のように文字量が多い時には情報過剰になってしまい、著者のメッセージだけを読みとるにははなはだ邪魔者なのである。

 

そんな情報過多の書物を見つけた。室生犀星著者自装『波折(なをり)』(竹村書店、昭和14年)の函には、犀星自筆の黒と薄墨の文字とが品良くあしらわれていて、瀟洒で見事な装丁に仕上がっている。犀星は手書きの文字を好んで装丁に使用した。室生犀星『定本犀星句集 遠野集』(五月書房、昭和34年)は、装丁だけではなく、本文中の全ての句を自ら筆で書いている。

 

巻頭言には「なお本集の墨書原稿は昭和十二年の冬に、信州軽井沢の宿でこつこつ書いたもので、その当時から墨書きの書物を思い立つてゐたが、機会がなく今日に至ったものである。」と記されている。犀星ファンにとっては嬉しい書物なのかも知れないが、お世辞にも達筆とはいえない文字で、読むのは苦痛である。

 

ベストセラーに手書きの文字がどのくらい使われているのか?

 

このテーマについては、これから資料を漁っていくつもりです。このようにして1月24日まで、講演資料をライブで制作してみようと思っている。

個性的なインディーズ版書体をつかう

 

石塚純一『金尾文淵堂をめぐる人びと』(新宿書房、2005年)は、私が装丁した本だが、タイトルに使った文字をよく見てください。ひらがながちょっと新聞などで見る書体とは違うのが解るだろう。

 

この書体は、「ボカッシイ」「いまりゅう」「今宗」などの書体を設計した今田欣一さんの設計によるもので、朗文堂・組版工学研究会が「和字Revision9」として9種類のかな文字を搭載して発売しているもの。Macintosh対応のTrue Typeフォーマットだけのもので、汎用性は低い。

 

そこがデザーナーにとっては有難い。本当のことをいうとこの書体の存在をあまり知らせたくないのが、デザイナーとしての本音である。こんな書体を密かに探し求めて、沢山隠し持っているのもデザイナーの能力でもあるのだから。

 

次回は私だけの書体についての話しをします。(これは予告先発のようなもので)

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